2022年


ーーーー7/5−−−−  聞き違い


 
友人の木工家M氏の工房へ、木工家志望の青年を連れて行ったことがあった。M氏のユニークな製作スタイルが、参考になればと思ったからである。

 青年を紹介すると、M氏は「どこに住んでいるんだ?」と、彼らしいザックリとした質問をした。青年は、「駒込(こまごめ)っす」と答えた。するとM氏は、「君は青年海外協力隊と関係があるのか?」とたずねた。青年は「関係ないっす」と答えた。この会話はそれで終わり、話題は別の事に移った。

 青年は、なぜ唐突にM氏が青年海外協力隊を口にしたのか、疑問を抱いたと思うが、問い返しはしなかった。なぜ聞かれたかは分からないが、関係ないからそう答えただけである。

 一方のM氏は、自分の問いに対して青年が、ともかく答えたという事実を確認して、良しとしただろう。青年の答えは、M氏の予想から外れたようだが、それは氏にとって何の問題もない。

 ところで、私は失笑を禁じ得なかった。居合わせた三人の中で、この珍妙なるやりとりの原因に気付いたのは、私一人だったからである。M氏は駒込を駒ヶ根(こまがね)と聞き違えたのだ。駒ヶ根には、青年海外協力隊の訓練所がある。それで、あのような問いを発したのであった。

 聞き違えによるすれちがいの会話など、日常的なことである。しかし、これほど他愛なく見事に決まった例は、珍しい。




ーーー7/12−−− ガラスの浜 


 2001年、米国西海岸へ木工取材の旅行をした折のこと。世界的に著名な木工家具作家ジェームズ・クレノフ氏が指導をしている、木工学校を視察した。場所はフォートブラッグという名の、海辺の小さな町。現地の人たちと交流を持ったのだが、空いた時間に海岸へ案内された。珍しいものが見れるからと。

 たしかに珍しい光景だった。砂浜に一面、白、青、茶、緑色などののガラスの粒が散りばめられているのである。粒の大きさは、だいたい小豆ほどで揃っていた。角が無く、丸みをおびていて、球形に近いものもあった。

 これはいったいどうしたことか? と訊ねたら、現地の人曰く、この海岸では昔から、酔っ払いが酒の空き瓶を海に向けて投げる習慣があった。瓶が割れて砕け、ガラスの破片が波に洗われてビーズ状になり、長い年月を経て砂浜に堆積したのだと。

 ガラスの小粒は、手の平の上でサラサラと動き、陽の光を受けてキラキラと輝いた。それはとても綺麗な光景だった。しかし、その歴史的背景を思い浮かべると、いささかぞっとするものがあった。割れた瓶のガラスが細かい粒になるまで、相当な時間がかかるはずだ。その間、割れた瓶が波打ち際の海底に転がっていることになる。そんな海岸で海水浴など、危険でできない。これが日本だったら、海にガラス瓶を投げるなど、犯罪的行為と見なされるだろう。大らかと言うか、何と言うか。つまるところ、米国は広いということか。

 ところで、ガラスは粉々に砕けてビーズ状になっても、害は無い。それに対して、プラスチック類は海洋汚染源として、重大な問題となっている。鉱物を加熱処理して製造するガラスに比べて、化学的に合成して作られるプラスチックの方が、はるかに厄介な物質だと言える。20年前の、美しいガラスの浜の光景を思い出しながら、そんなことを考えた。





ーーー7/19−−− 善悪を知る


 
善悪を知るということは、世の中には善い事と悪い事があるということを認識することである。しかしそれに留まらない。善悪を知るということは、人は善も悪も選ぶことが出来ると気付く事なのである。イヴは蛇にそそのかされて、禁断の木の実を食べたが、食べる前からそれが悪い事だと知っていた。悪いと知りながらそれを行ったことが、重要なのである。

 人間以外の動物、野生の動物には、善悪の区別は無い。本能のままに行動するだけであって、善い事だから行うとか、悪い事だから行わないということは無い。仲間を殺して食べてしまっても、腹が空いたからそうしただけであって、罪の意識にさいなまれることは無い。

 人間は本能の支配を離れて行動することができる特別な動物である。

 本能による行動は必然であり、選択の余地は無い。それに対し、本能を制御して行動する人間は、選択をする存在である。善いことも、悪い事も、どちらも人は選択することができる。善悪は、人の心の中の根源的な選択肢である。

 善悪の区別ができるのは人間だけであるが、人間であっても無人島に独りで住んでいる者には、善も悪も無い。殺したり、奪ったり、あるいは憎んだり妬んだりする相手がいないからである。

 つまり善悪というのは、他者との関わりがあってはじめて、人間の内に存在する物である。禁断の木の実を食べて善悪を知ったアダムとイヴが、最初に行ったのは裸であることを恥じて木の葉をまとったことであった。他者の目を意識することが、善悪を知ることのスタート地点なのである。

 そして、社会の中で生活する限り、つまり他者との関係が存在する限り、人は悪を行うことから逃れることはできない。常に善でありたいと願っても、その願いがかなえられる可能性は、どんなに優れた人であっても、はっきり言ってゼロなのである。

 それはこういう事である。ささいな事で腹を立て、相手を口汚く罵って傷付けるという行為は、誰でも何時でも経験することだろう。また口には出さなくとも、他人を悪く思ったり、憎んだり、恨んだり、蔑んだりすることがある。それは些細な事に見えるが、良く考えると、そういう事の積み重ねが、人生の不幸の原点だと気付く。そのような行為を悪と見なすなら、悪を犯さない人というのは存在しないのである。その事実は、自分および周囲の人を見れば明白である。

 善悪を知るということは、自分の心の中で、善が起こりつつあるのか、悪が起こりつつあるのか、つまり善悪のどちらを選択しようとしているかに気付くことである。またどちらを選択してしまったかを認識することである。その選択の結果によって、人は喜び、あるいは悔やみ、そして幸せにもなり、逆に不幸にもなる。

ドストエフスキーはこんな言葉を残している。 

 「天使と悪魔が闘っている。その戦場こそは、人間の心なのだ」

言い換えればこうなるだろう。

 「善と悪が競っている。その競技場こそは、人間の心なのだ」




ーーー7/26−−− 野鳥の巣の怪


 
工房の入り口のわきに、高さ3メートルほどのリョウブの木がある。しばらく前から、野鳥が飛んできて、木の枝の中に入り込むのを見るようになった。ちょうど花が咲き始めたところなので、そのつぼみでも食べに来ているのかと思った。

 一週間ほど前のある日、鳥の巣ができていることに気が付いた。野鳥は、枝の中に入り込んで、この巣を作っていたのだと理解した。しかし巣を作る作業は見ていない。工房の中からすぐ近くに見える場所なのに、気が付かなかった。人に見られないように、上手く作るものだと思った。中を覗いてみたら、卵が四つあった。考えれば当然のことだろうが、ちょっと驚いた。野鳥の卵をじかに見るのは、初めてのことである。調べて見たらヒヨドリの卵だった。この先卵が孵って雛になり、そして巣立っていく様子を想像したら、楽しくなった。

 親鳥の姿は、巣の中に隠れて見えないが、卵を温めているのだろう。それが、私が通りかかるたびにバサバサと飛び立っていく。そして暫くすると舞い戻ってくる。私が工房に出入りするたびに、そのようなことを繰り返す。何も悪いことなどしないのに、と言いたくなった。卵を盗んだりするつもりなら、もうやっている。それをしないで見守っているのだから、安心して子育てに専念すれば良いのに、と思った。そんな私の気持ちも知らずに、バサバサを繰り返す。だったら、こんな場所に巣を作らなければ良いのに。

 工房に出入りする自分が、気を使うようになった。たまたま巣から出ているのか、あるいは巣の中で息を殺しているのか、私が通過しても飛び立たないこともある。そういう時は、なんだかホッとする。逆にバサバサと飛び立たれると、迷惑をかけているような気になる。ある時など、工房から出ようとして、ちらりと巣を見たら、巣から首を出していた親鳥と目が合った。そうしたら気が引けて、工房から出るのを止めにした。

 そんなこんなで、否応なしに気を使わざるをえない日々が続いたのだが、一週間ほど経ったある日、親鳥の気配が全くしなくなった。なんだか様子がおかしいと思い、工房の中から見守ったが、飛び立つこともないし、飛んで来ることもない。こうなると、巣の中の様子が気になる。スマホを棒の先に取り付けて、セルフタイマーをセットし、巣の上にかざして撮影してみた。すると、巣の中の卵は一つも無かった。もぬけの空になっていたのである。

 状況は全く読めないが、一応木の根元の地面を調べてみた。しかし卵そのものも、割れた殻も見付からなかった。四つの卵は、そのまま何処かへ持ち去られたものと思われた。ネットでしらべてみたら、カラスなどの大型の野鳥が、卵をくわえて盗み出すことがあるらしい。蛇が木を上り、巣の中の卵を食べる可能性もあるだろうが、それなら殻が残るのではないか。やはりカラスの仕業だと思われた。

 卵から雛が孵ることを楽しみにしていたので、がっかりした。卵が無くなった巣には、もはや親鳥も戻らない。巣だけ残して、ぱったりと姿を消した。それが寂しさを倍増させた。